イーストウッド新作 インビクタス 負けざる者たちもあるでよ!

チェンジリングのネタバレサイト





アンジェリーナ・ジョリー主演 Changeling 2008 真実のチェンジリング
ネットで拾ったトリヴィア 真偽のほどはわかりません
また片っ端から追加してるので話があちこち飛びまくり
また記事により違う記述もそのまま
さらに文献喪失でどこの引用かわかんなくなってるのも多数
参照サイトは英語サイトのみを参照しました

ウォルターが生きていたら今年で89歳です(2008年現在)


ジョーンズ警部が春日(オードリー)に見える人増大中だそうです

チェンジリングにオードリー春日が?といわれた人がこの人である

・チェンジリングは実話を元にしているがイーストウッドが"実話”という言葉を脚本から削るよう求めた。いわく”大切なのは実話なのかではなく、良い物語であるかどうかが重要だ”からだという。しかし実際の作品では冒頭に”この物語は実話である” という文字から始まり 最後に”事実を基にしているが、殺された子供の数など一部フィクションである”という文字で終わっている。ノースコット死刑後の物語も結末まで創作と思われる。

・プロデューサーにアポロ13、ダヴィンチコードの監督のロンハワードの名前が入っている。元々ハワードへ監督としてふられたが、Frost/Nixonという作品の契約があったため監督は出来ず。しかしこの作品はすぐに作品化すべきと感じたハワードはイーストウッドへ脚本を送った。A級クラスの監督五人が興味を示したという。

・イーストウッドが脚本を渡されたときすでにアンジェリーナ・ジョリーが興味を持っていたという。他ヒラリースワンク、リース・ウィザースプーンが強くこの役を求めてきたが、ジョリーが興味を指名していると聞いたイーストウッドは”では主役は探す必要は無い”とプロデューサーに話したという。

・脚本の J. Michael Straczynski。第一項を仕上げてから12日でロンハワードの元にわたった。イーストウッドが撮影で使用した台本はStraczynskiが書いた第一項を使い、ミリオンダラーベイビー同様、脚本家に撮影台本の手直しを求めなかった。Straczynskiはイーストウッド監督で、しかも自分の脚本がそのまま採用となったことを夢のようと話している。

・Straczynskがこの題材をみつけたのはロス市役所の人間から”Wineville Chicken Coop Murder”を含む昔の書類を破棄すると聞いたときだった。書類を見て打ちのめされたStraczynskiは一年リサーチを行い11日で脚本を書き上げた。

・イーストウッドは脚本を飛行機に乗るときに受け取っていたがその日の午後には監督を引き受けていた。
(とIMDBのサイトに書かれていたがイーストウッド本人は、、電話でロンハワードとブライアングレイザーから良い脚本があると伝えられ、べりルイン行きの飛行機に乗る前に受け取り、ベルリンから帰る飛行機の中で読んだと話している。気に入り町に戻った時に電話してやるとプロデューサーに電話したという。)

・いくつかのシーンはSan Bernardinoで撮影されているが時は2007年。カリフォルニアを襲った大規模な森林火災の影響で街中が白っぽく煙がかっていた。

・イーストウッドファンにはすでに語りつくされた話題だが本作のメイキングで、撮影するに当たり”アクション!”といわない理由を話している。
伝えられているとおり昔のウェスタンで監督が大きな声でアクションといったため驚いた馬が動き出し、カメラの前には誰もいなかった・・・からで、ゆえ別の言い方でいうようにした。本作でも"Go ahead"などの言葉を使っている。
ちなみに日本はお金もないのでフィルム代が勿体なく監督のよーいの声でフィルムが回りだし、アクションの声の後、音とフィルムに収録された絵を編集でシンクロさせるため監督の声にかぶらないよう、またフィルムの回りが安定するよう、一間置いてカチンコの音を入れる。そして音の反響が抜けるよう、一間あけ演技が始まる。フィルム代がもったいないとはいえ、すぐに演技を始めてはフィルムの回転が安定しない、音の反響が残る、助監督が逃げられないなどあり、間が必要となるため、一般的なイメージよりは間が空けられて演技は始まる。ゆえフィルムに慣れていない役者はかカチンコの音の直後に演技を始めることも多く、監督に怒られることもしばしば。フィルムは1秒間24コマ。たった一秒で写るんです24枚撮りをと同じ枚数のフィルムが消費されてしまう。現像代も含め節約しなければ。
アメリカは予算多しのため、撮影助手のカチンコが入り、それからゆったりと監督の声で撮影が始まる。
新人助監督は監督のスタートの声でいきなりカチンコを打つため、タイミングが悪いと怒られ、新人俳優はカチンこの後すぐに演技をしだし、これまた、早いよと怒られる。
デジタル撮影も行われてきているが激しい動きに弱く、発色も仰々しいなどまだまだフィルムの時代はしばし続くのだ。

・プロデューサーの一人グレイザーはイーストウッド監督との仕事で一番驚いたのは、イーストウッドがとってもとってもファニーガイであったこと。冗談を連発する監督とは思わなかったようだ。

・クリスティン&ウォルターの誘拐された時の家の住所は210 North Avenue 23,Los Angeles, California。
左が映画の撮影用の住居。右は現在の210 North Avenue 23。すぐそばに高速道路がある。



・ウォルターコリンズやクリスティンが通学通勤で利用していた赤い路面電車。1901-1961年に運行していたPacific Electric Railway。日本でもパシフィック電鉄の名前で知られている。



・上映時間は2時間20分。

・撮影期間は35日。2007年の12月に行われた。

・イーストウッドにとって1997年の目撃(コロンビア)以来11年ぶりにワーナー以外の撮影スタジオでの仕事だった。

・15年ぶりにジョンマルコビッチはイーストウッドと仕事。ただし前回のシークレットサービスでは俳優同士での仕事。イーストウッド監督、俳優マルコビッチとしては初の仕事となった。

・5月のカンヌ映画祭のコンピテイション部門の出品作品。受賞はならず。

・アメリカ公開は2008年11月7日。

・changelingは和訳では取替え子。妖精は美しいものが大好き。ゆえ生まれたばかりの綺麗な人間の赤子は妖精に誘拐され、かわりに醜い妖精の赤子が残されるという古くからの言い伝え、伝説(いろいろな伝えられかたがあるようです)。

・カンヌに出品された際、フランス語でChanglingに相当する単語がないため、フランス語では英語のExchangeに相当する単語が映画のタイトルになった。しかしカンヌのプレミアの際、英語タイトルもExchangeに変更されたとなり、記者会見でイーストウッドもびっくり。ただし翌日には何事もなかったようにタイトルはChangelingに戻っていた。各メディア一日だけ映画の記事にExchangeとしたが翌日付けからの記事ではメディアからExchangeの文字は見事に消えうせていた。

・カンヌの会見の場でイーストウッドはダーティハリーの続編はもうないと語った。

・カンヌ以降初めての上映は9月5日から14日にNYで開催される第34回Deauville American Film Festivalでの上映。。8月28日のNYTimesはイーストウッドと編集のジョエルコックスがカンヌ以降編集に修正を加えていると伝えた。ヴァラエティ紙によるとカンヌ上映の一週間前までコックスは編集を行っていたと伝えており、カンヌは上映に間に合わせるために急仕上げであったのかもしれない。NYTimesは Toronto International Film Festival(9月4日スタート)での上映はまだ編集が入るために上映が見送られたと伝えている。

イーストウッドはミステイックリバーの時もカンヌからアメリカ本国公開の間、手直しを行っている。

・本編予告編リリースは08年9月11日(アメリカ時間)。イーストウッドが予告編の監督も務めた。”映画が真実”といううたい文句をイーストウッドは好んでいないと一部ネット記事で伝えられていたが、第一弾予告編ではTrue Storyの大きな文字が黒いスクリーン白で浮き上がっている。

・ジョリー演じるクリスティンの台詞"Never start a fight, but always finish it." は二回使われている。これは本作品の脚本家Straczynskiが1994年に始まったSFテレビドラマBabylon 5でジョン・シェリダン大佐の台詞として使った台詞。

・"Bummy's"というカフェが見えるがこれはもちろんイーストウッド監督の右腕として長らく美術を担当したHenry Bumsteadのニックネーム。硫黄島二部作最後の仕事とし2006年のガンで死去。

・1951年6月7日にオンエアーされたラジオドラマDragnetでもWineville Chicken Coop Murdersを題材にしたエピソードが放映された。The Big Murderというタイトル。また同番組がラジオからテレビでも放映が始まり、1952年12月4日に放送。ウォルターコリンズのふりをした少年アーサー八チンズに焦点をあてたストーリーだった。もう一つのチェンジリング。 でーででっで で有名なあのドラグネットである。

・18号室の電気びりびり拷問部屋。丸い顔30歳そこそこの鬼看護婦役のRiki Lindhome。イーストウッド監督のミリオンダラーベイビーでも主人公ヒラリースワンクの姉妹役でビッチぶりを発揮していた。脇役が多くHEROSやクリミナルマインドでもチョイ役で出ている模様。

・クリスティがウォルターを探しているときに二人の自転車の女の子にウォルターを知っているか聞くが、そのうちの一人がMorgan Eastwood。イーストウッドの65歳の時の娘。ミリオンダラーベイビーではトラックに乗っている女の子でヒラリースワンクにガソリンスタンドで手を振っていた。

・イーストウッドが爺さんよくがんばるなぁというならこっちもほめてあげたい。スタントコーディネーターはヴァディバンホーン。イーストウッド映画ではおなじみのバンホーンは1929年生まれ。イーストウッド監督の次回作グラントリノでもアンクレジットながらコーディネーターをしている。

・犯罪ライターのDominik Dunneが裁判のシーンでカメオ出演。

・イーストウッドにとってユニバーサルピクチャーでの演出は1975年のアイガーサンクション以来。またドキュメンタリーなどをのぞくと1993年のシークレットサービス以来のワーナーブラザース以外のスタジオでの仕事。

・実際にはクリスティンはウォルターが映画をみにいくために50セントのお小遣いをあげおり、そのままウォルターは帰ってこなかった。

・映画では、ばかたれこの上ないLA市警であるが、実際には公園の湖などで溺死した可能性などもあり、湖を職員総出で水さらいしたり、一応捜査はしていた模様。左がジョーンズ率いる捜査隊が湖で子供を捜している写真。下の右は実際のクリスティとウォルターに扮したハッチンズの写真。LAPDは全米の規模の手配活動を行うなどしていた。全米の新聞にウォルターの写真がのることになった。
右の写真は二人の再会の抱擁の写真。この写真の記事では 母親は最初息子と認識できなかったようだ。という見出しを上げ
”五ヶ月前のLAで誘拐されイリノイで発見されたウォルター少年が帰ってきた。体の状態はとても悲惨な状態で、再会の瞬間母親が息子と認識できなかったほどだ。しかし警官によると身体的なものだけではなく精神的にも少年はダメージを追っていると話している。
母親の再会の時の第一声は”私の子供じゃないと思います”だった。しかし左手の親指を口に入れる癖(おしゃぶり癖)がウォルターと同じということもあり母親も徐々に息子と理解していたったようだ。そして誘拐に関しては少年は
「遊んでいたらお母さんに頼まれて迎えに来たと男の人がいってきた。お母さんから15ドル受け取っている。服を買ってあげるって。お母さんの古い友達っていっていた。メキシカンの女の人の家につれていかれ何日か過ごしそのあとハリウッドそばのどこかで数日過ごした。男の人はお母さんは本当のお母さんではなく自分が僕の本当の父親だと言っていた。僕はそのとき、この人はシアトルにいる僕のお父さんなのかと思った。実際の父親は当時シアトルにいた。本当の父親と信じて、汽車にのってデカルブについた。お父さんには自分のことはしゃべるなと口止めされた。」と話している。まだ初日の段階で今後警察はもっと詳しく話を聞くことになる”と書いている。

・警察の手広い捜査網のおかげでウォルターの目撃者と名乗り出るものは多かった。Glendaleのガスステーションのオーナーはある車の後部座席に新聞に包まれ頭部だけが露出しているウォルターを見たと名乗り出た。一緒に目撃したという女性は車の運転手はイタリア系だと話していた。結局空振りに終わることばかりが続き、五ヵ月後、ウォルターと名乗るハッチンズ少年が現れたのである。

・映画の印象ではウォルター少年イリノイで見つかる〜カリフォルニアに戻るまですぐだったように見えるが実際は発見から戻るまで二週間の間がある。ウォルターが発見されたのとLA Timesが報じたのは8月5日付け 戻ったきたのは8月18日。
発見の報を伝える記事では”イリノイのデカルブで見つかった少年は当初自分はアーサーケントと名乗り父親にここまで連れてこられたが逃げたと話していた。その後農場に住まわせてもらい路上で警官に見つかった。少年は数週間警察の施設に滞在し、少年を見つけた警官の尋問でウォルターであると告白したという。何も話さなかった理由は少年は"父親"と彼が話す男を警察がつれてくるのが怖いからだ、と警官は話している。少年が農場に滞在しているときS ハッチンズという男が誰かを探して農場に現れたがすぐに立ち去ったという。少年は留守にしていたが立ち去った後に戻り、農場の人間の話だと、あれが”父”と呼ばれる男だと泣いたという。ハッチンズは記録ではサンクエンティン刑務所に服役していることになっており現在デカルブの警察はハッチンズがまだ服役中か確認している”と書いている。

・偽ウォルターが戻ってきてから、偽ウォルターはしばし病院に入っていたとする文献がある。どの程度でクリスティンの家に行くくことになっかはわからないが、クリスティンは偽ウォルターが来てから三週間後にウォルターを連れて警察に殴りこみ。ぶちぎれジョーンズ警部はクリスティンの精神病行きを決めた。クリスティンの病院生活は1941年のクリスティンとジョーンズ元警部の賠償金不払い裁判を伝える新聞で、5日としている。

・映画では農場でウォルターコリンズの死体が出た、死亡確定ということでクリスティンは精神病院から出ることが出来たことになっていたが、実際にはウォルターに成りすましたハッチンズがウォルターでないことを認めたため病院から出ることになった。クリスティンが精神病院に入っていた五日目にジョーンズ警部もさすがにまずいとかんじたのか、ウォルターを名乗る少年を厳しく詰問。少年はここでようやく自分はウォルターでないことを認めたのだった。ただしクリスティンが精神病から出たのはジョーンズが真実を知ってから10日もたってからだった(しかしクリスティが残した手紙では本人は精神病院に五日も入れられたと書いている。また1941年のジョーンズ警部の不払い賠償金裁判を伝える新聞でも五日としている)。映画ではクリスティンが病院から出た後にハッチンズは嘘を認めている。

・クリスティは病院を出た後、市とジョーンズらの訴えを起こす。苦難は続く。映画とは違い、出所した理由は映画では殺人事件の被害者とされたからだが実際には偽ウォルターがついに嘘ですと白状したため。映画ではあっという間に終わったクリスティンのジョーンズ警部らの告発。実際には映画の中での裁判で警部の解雇処分がでてからもさらに続き、2年と2ヶ月の後、ジョーンズ警部には賠償金10800ドルの支払命令が言い渡された。このお金をウォルター発見の費やすと話していたクリスティ。しかし心底腐りきっているジョーンズは払おうとせず。往生際の悪いジョーンズは幾度も裁判のやり直しを求めたという。結局このあとも支払いを求める裁判をクリスティは起こしたがお金は払われることはなかった。ついでにジョーンズは裁判で警察から解雇処分を命ずとしたが、警察は解雇処分をせず、ジョーンズはその後に自ら辞職した。

・実際の世界では、ウォルターがはるか遠いイリノイ州で発見されたと聞いたクリスティは交通費などの費用として70ドルを送金した。

・殺人鬼ノースカットの殺害人数は詳しくはわかっていない。20人はいると見られている。ノースカットの絞首刑が行われた六週間後にも、殺戮が行われた農場近くの砂漠地帯で12-15際の少年と見られる骨が発見されている。(注 ただしMcKeeという犯罪アナリストによるとのちのその骨は女性の大人の骨だったと判明。詳細は下のほうのどこかに)

・ノースコットは自身の弁護人を全員解雇したため自分で自分の弁護を行っている。クリスティが裁判所で証言台に呼ばれた時には
「あなたは息子さんがいなくなったとき誰かに連れられている様子を目撃したのですか?」
と質問、クリスティは
「見てません。でも他の目撃証言では背が高く紙の黒い男と若い女性が息子と話をしていたのを見ていたというものがあります」
などという映画では描かれなかったやりとりもあった。

・死刑前日に母親と面会を望み実際に面会したノースコット。映画では真実を話すといいながら結局真実は語らず。イーストウッド監督は映画製作をする上でこのシーンの意味を
「犯人は母親に犯人がすべてを告白すると思って来させたんだ。でも彼はそうはしないでただ母親をもてあそんだんだ。あれは彼が行った最後の残酷な行為だった。」と話している。映画の中のクリスティは面会で犯人のむなぐらつかんで脅すように息子を殺したのが問い詰めていた。その後死刑となるシーンに向かう。クリスティの怒りを描くことで、長いとも思われる死刑シーンを観客に当然のことと思わせる演出だったのだろうか。実際のクリスティンは面会の際中、終始静かだった。
実際の面会の様子は↓のどこかに書いた。記事によるとイーストウッド監督も面会の場面はクリスティだけでなく他の母親もいたことを知っているようだ。

・映画の中でノースコットは死刑の前に"Silent Night"を歌っている。アメリカの掲示板でもこれは事実ではないのではないだろうかとの声も多く、多くに人がネットでのリサーチをしたがそのような文献は見つけられなかったとしている。死刑の様子を詳細に伝えたLA Times(ただしノースコットが死ぬまで延々12分間もつるされたことはリポートしなかったが)にもそのようなことはリポートされていない。五年後に発見された少年とともに映画の大きなフィクションなのだろうか。

・映画の中でノースコットとクリスティが刑務所で二人であっている。実際にはノースコットに殺されたウィンスロー兄弟の母親と、ほか行方不明の子供をもつ二人の母親と全部で四人あっている。ノースコットは死刑に先立ち、両親と、ノースコットについていた牧師さんに手紙を残している。母親あてに残した手紙には
「母さん。M.C(ミセスコリンズ)とMW(ミセスウィンスロー)に会ったよ。彼らには僕は罪深いよ、わかっているだろうけどって話した。でもコリンズ婦人は僕がウォルターに関することは何も話せないので嘘だってわかってたみたいだよ。嘘つくのが下手だからね。毒薬をある男から手に入れたんだ。朝飲んで自殺するつもりだよ。神に祈ってる。お母さんも父さんも無実だってわかってるよ。」と書いている。あと他の二人の母親の記述はなかった。LA TImesにも他2人の母親のことはのっていなかった。

・イーストウッド監督はウォルター少年はノースコットの農場で殺されたことは間違えないだろうと思っている。

・作品を作るにあたりイーストウッド監督も農場があった場所を訪れている。イーストウッド監督は建っている家が当時のままということは知らなかったようで、
「不気味だった。家があったあれが当時のままかどうかわからなかったがかなり前に立てられた家があった。誰か住んでいるようだが、家を訪れてみようという気にはなれなかった」と話している。すんでいる人の話は↓のどこかに書いた。

・残虐な殺人鬼だが少年に行っていたのではともされている性的暴行を含め、犯行に関してはほのめかすなどの描写でとどめている。
「実際にあった野蛮さを隠すこことでより残忍性を感じられると思ったんだ」とイーストウッド監督。イーストウッドは観客も馬鹿でないので全てを描かずにも理解するとつねづね話している。FBIのプロファイリングという単語がすでに一般化。猟奇殺人事件の犯人のプロファイル像もおおむね一般化していると判断し、犯人の残虐性を観客の創造にゆだねたようだ。

・裁判所がジョーンズ警部に命じたクリスティンへの賠償金10800jは2006年の貨幣価値に当てはめると125000j。1j100円で計算すると1200万円にもなる。

・映画のラストに簡単が事後をテロップで紹介していたが、2006年の時点の脚本ではラストのテロップの量はおおかった。
以下にそのテロップの内容を記す

ゴードンノースコットは1935年10月2日 絞首刑となる(1930年の間違え)

司法取引によりサンフォードクラークはWhitter State School for Boyの施設に五年収容が言い渡される。1934年に施設を出カナダに戻る。それ以後消息は不明。(ネットでの文献では28ヶ月施設にいて出た後は郵便局に勤め、結婚し、養子を迎えるなど死のその日まで消息は明らかになっている。)

一年後市はLAPDにJame Davis本部長の辞任とEoy Steckelの就任を薦める。しかしJamesは1933年に再び本部長となる。かれが赤狩りのためのRed Squadを組織して共産主義の人間や事務所を襲った。腐敗警察の渦が起こり二度目の退任となった。
(映画では、部長を辞めたところまでテロップ。後半はカット。こんなテロップ入れるとせっかくのクリスティンの苦労が報われないので外したのでしょうか)

市の公聴会の後、男性の警官による安易な投獄から女性を守るためカリフォルニアの司法システムは見直された。男性警官による職権乱用を避けるため、女性が正統な医療検査を受けることが出来るようにされた。

1929年11月 LA市長のCryerは市長の三期勤で辞めさせられる。のちに彼は、売春、ギャンブルなどを行っていた犯罪集団の顔だったことが明らかに。
(映画のテロップでは選挙に出ないことを決めたとなっていました。)

牧師さんは・・・・・映画のとおりのテロップ

農場があったWinevilleはMira Momaと名前変わる・・・映画どおりのテロップ

クリスティンは息子を探すことを辞めなかった・・・映画どおり

ウォルターコリンズのミステリーな運命。もし彼がノースコットの農場から逃げることが出来ていたなら今86歳になっている。
(脚本は2006年に書かれたバージョン)




--------------------------------------------------------------------------------------------------------

NOTHING IS STRANGE WITH YOU: THE LIFE AND CRIMES OF GORDON STEWART NORTHCOTT という本がある。左が本の表紙で殺人鬼ノースコットがにらみつけている。James Paulの著作で15年にわたりリサーチして書き上げたものだという。その作者によると
・ ウォルターは実際にはノースコットおよび共犯のノースコット母には殺されていないのではとする声もあるが作者のJames Paulはウォルターは母親に殺されたと信じている。母親はウォルター殺害を認め終身刑となっている(のちに12年で出所)
・ すでに農場から出た骨や血がついた斧など廃棄されているためDNA検査などは出来ない。
・ 作者はノースコットは殺人を犯したいため少年を殺しているのではなく、拷問、苦しめることが好きなサディズムでノースコットの頭の中は殺しているという認識ではなく苦しめているという認識で子供達を殺したのだ感じている。
・映画の中でクリスティはノースコットと会っているが、二人の兄弟が殺されたWinslow婦人、他二人の行方不明になっている子供の母親が面会している。作者の意見は、メディアを騒がせることが好きだったノースコットが騒ぎを起こすために面談を申し出たのではとしている。
・作者はノースコットの農場から生きて生還した人物はおらず、都市伝説としている。
・ノースコットは母親に女の子の服を着せられて成長したという話についてはそれはないと思うとしている。
・ノースコットはLAのコリンズ家の生活範囲にあるスーパーに一時務めていたことがあるという。
・クリスティが精神病院から出られたのは弁護士たちの活躍ではなく(書類上はそうであっても)、病院の医師が自らの決定でクリスティを出してくれた。
・五年後に生存者があわられたというのはハリウットが生んだ都市伝説だとAamazon上で書いている。
・クラーク少年が施設から出てカナダで結婚後養子にとった人物が出版社とクラーク少年の本にかんする契約を結んだという話を聞いており、2009年秋に向けて本の出版を予定していると聞いているとしている。
・作者は映画は大きな事件の小さな局面を描いたものなので15年かけて調べて書き上げた事件の全貌を僕の本をみて知ってね、とAamazonに書いている。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------


ノースコット農場の小屋はもうないが住居だった家はそのまま残っている。右の赤い服の女性は夫と今ここに住んでいる人。左の当時の写真。同じ三角屋根に窓。色は昔の家は白かったようだ。
「最初私の家にそんな人が住んでいたなんて聞いた時は恐ろしかった。同じ家を同じように歩いていたなんて」とインタビューで話している赤い服の人。また残虐が行われた場所にも今は家がたっておりそこにも当然人が住んでいる。赤い服の人は
「夫は映画をみたいっていってるけど私はいやだ。そんな事実は忘れようとしているんだから」と話している。
町の人はあの残虐な事件について今は誰も覚えていない・・・・覚えていないと努力しようとしている。
現在町に当時の呼び名Winevilleの文字はたった一つ。とおりの道路標識のみだという。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------
物語はこんな感じで進んでいった模様(さまざまな文献より。文献により情報が違うのですがそこはあてはまるように都合にいい日あてはめて作成してみました。

1928年
3月10日
ウォルターコリンズ失踪 なおクラーク少年によると誘拐した一週間後にはコリンズ少年殺害としてる。
3月16日 ウィンスロー兄弟失踪
7月 ハッチンズ少年がイリノイ州デカルブで警官に保護される。警察の施設で数週間過ごす
8月4日 ハッチンズ少年が自分はウォルターコリンズであると警官に話す。
ロス-デカルブ間で写真の送付と特徴などの情報交換がありウォルターと断定される。
8月18日 ウォルター少年がロスに戻る。ウォルター少年は身体的にかなり消耗しているとして一時施設に入る
8月  施設にどれだけいたのかわからないがウォルター母親の元に
9月4日 この頃 クラーク少年が農場でつかまる
クラーク少年が犯罪を話したのは捕まってから10日という文献より犯罪告白14日から10日さかのぼったのがこの日
9月10日

クリスティが子供をつれて警察に殴りこみ、”私の子供じゃない” 
その話にジョーンズ警部ぶちきれでクリスティを即精神病院へ。
戻ってきてから三週間後に子供を警察につれてきたという文献があるが、偽ウォルターが15日に嘘をついていたということを認めたと16日付けの新聞。クリスティ自身が病院に5日入れられたとしているため、嘘告白のあとすぐに病院を出されたと仮定して、5日さかのぼった10日から15日がクリスティ病院入院期間。

9月14日 クラーク少年犯罪を告白 
13枚の子供の写真の中からウィンスロー兄弟およびウォルター少年、身元不明のメキシカン少年の殺害を認める
16日日曜日付けのLA Timesはクラーク少年の証言で金曜の夜遅くに3人の警官が農場に入り明けた次の日に6人入って調べとしている。最初の立ち入りが明るい昼間でなく夜だったのは告白後すぐ農場へ入ったためと見られる。ゆえ14日を白状の日とした。
15日の告白という文献もあったがRiverside Press紙も15日付けの新聞で農場で死体でると伝えているので14日のほうが正しいと思える。
9月15日 偽ウォルターが嘘を白状。
16日の新聞で、昨日ハッチンズ少年が嘘を認めた とあることから16日の一日前なのでこの日が白状の日。
同日 クリスティ退院。
クリスティ退院の理由はクラーク少年の証言ではなくハッチンズが嘘をついていることを白状したため。ハッチンズが嘘を認めたため、クラーク少年の証言は正しい として釈放された。ゆえ釈放はノースコットの白状直後ではなくハッチンズの白状直後としてこの日がクリスティ退院の日とした

9月19日 ノースコットがブリティッシュコロンビアで逮捕。同じ頃母親もカルガリーで逮捕。
20日としている文献も多数。20日付けの新聞で逮捕となっていたので、前日が逮捕としてみた。
1929年
2月19日
ノースコット死刑判決
1930年
5月31日
クリントイーストウッド監督生まれる
10月2日 ノースコット死刑執行

-------------------------------------------------------------------------------------------------------
登場人物たち
・Christine Collins 映画の主人公。映画の2006年に書かれた脚本では30代の女性となっていた。
最後に公に姿を見せたのは1941年。最高裁判所でジョーンズ元警部との争いの場だった。金を払わないジョーンズへのさらなる訴えの場だった。その際に賠償金の額は$15562にあがっていた。クリスティンは1900年生まれとの文献も多いが、国勢調査の資料の文献が正しいのではと見られる。本人が記入しているものだし。
以下1920年国勢調査では
クリスティンコリンズ。29歳(というと1891年生まれになる)母親はイギリス生まれ。父親はアイルランド生まれ。無職。同居家族 Conrad Collins30歳(ネットで探すとクリスティの夫の名前がWalter J.S Collinsという名前が多くヒットする。ただしクリスティが夫の保釈をもとめやりとりする刑務所での手紙ではWalter C Collinsで出てくる。またWalter J Collinsでも出てくる。ConradはCのミドルネームと見られる。時代が時代だけにあだ名も名前もごっちゃということもありえるのだろうか) 、Christine C Collins29歳 Water C Collins1才と3ヶ月。だんなの職業自動者電気技師。 1930年の調査の記録も残っている。なぜか誕生年が1893年になっていた。James C. Bartonという人の家にすんでいる。そして結婚していると書いている。家の持ち主との関係は"Roomer"としているのでBartonさんの家を間借りしていると見られる。Bartonさんはクリスティの旦那の刑務所からの保釈願いの手紙も書いてくれている。家具店に勤めていた。ウォルターの父であり夫(映画では家を出て行ったという夫、実際は事件の時には刑務所に)とは離婚しておらずこの頃クリスティは夫の保釈のため手紙を権威者に送るなど勤めている。詳細は↓のどこかにかいてアル。この年の資料では初婚は25歳の時と書いている。
またカリフォルニア州の選挙の投票のための登録があり、それにクリスティも登録を続けており記録も残っている。1934年にはたくさんの家族がすむアパートタイプの家に住み、36年の登録では職業を主婦としている。ネットで現地掲示板ではクリスティは再婚したという記録を読んだという書き込みもあった。刑務所に入っていた旦那はこの頃には病死している。映画では1935年に電話会社の上司といい感じの様子になってはいるが、あれは創作と見られる。クリスティは精神病院から出た後、職を失っている(↓のどこかに詳細書きました)。クリスティはほぼ2年おきに住所が変わっている。
クリスティは1954年の登録を最後に登録をしていない、もしくは記録が残っていない。ゆえ1954年まで自身が申告した住所は記録として残っている。1996年に亡くなったとのネットの資料もあったが実際はどうなのだろうか。実際のクリスティが下の写真。



・Walter J.S. Collins 刑務所の記録では1923年の時に41歳。ずいぶんクリスティとは年が離れてる。映画には出てこない。ウォルターの父。ネットで探すとWalter J.S. Collinsという名前で多く出てくるが、実際に入っていた刑務所の記録ではWalter C Collinsとなっている資料もある。Walter J Collinsの資料もある。1920年の国勢調査ではConrad Collinsとなっている。Walter C CollinsのミドルネームのCがConradと思われる。誘拐されたウォルターは父親と同じ名前をもらっていたことになる。強盗の罪で服役中だった。なおネットで探すとウォルター誘拐の時は懲役五年で刑務所に入っていたとなっているものもあったが、正しくは最低五年で五年過ぎると保釈が許される(可能性がある)というもの。1923年刑務所入りし模範囚人だったという。ただしそれが三回目の刑務所暮らしだった。父親自身は誘拐犯人は、刑務所仲間が復讐のため息子を誘拐したと信じていたという。ってあまり模範的な囚人じゃなかったみたいなこといっている。犯罪暦は見事なものだ。1908年に強盗で三年懲役、2年で出所。出て半年で泥棒して懲役10年で6年で保釈。六年おとなしくしていて1923年に鉄砲を使い、手を上げろ、金を出せでおなじみホールドアップ強盗でつかまっている。クリスティは駄目男のためにいったい何をやってんねん・・・映画ではデートまでいきそうな男の人出てきたのに・・・。
息子のウォルターと違い夫ウォルターの最後は明らかになっている。下の写真は刑務所写真。いつとったもんかはわからないという。


クリスティと夫ウォルターとは切れた関係ではない。クリスティは夫の保釈を求め何度も何度も刑務所所長などに手紙を州や警察に送っている。
映画ではクリスティは生活できるだけの収入がある女性とされているがクリスティの夫ウォルターの保釈を求める手紙の内容はそれとは違う。息子ウォルターが誘拐される二ヶ月前に出した手紙では
「彼だけが私たちのささえになってくれる人なのです。息子と私の生活費を電話会社での生計でたてていますがとても厳しいです。9歳の息子と私を支えるだけのサラリーはなく私の体もすぐれません。医者からは休養もすすめられています。どうか保釈の許可をされ彼に彼の家族を養うことを許してくださらないでしょうか。」と書いている。クリスティコリンズ婦人は数年前からこのような手紙を送り続けている。
息子ウォルターが行方不明でノースコットの死刑判決が出て数ヵ月後の1929年五月の保釈を願う手紙(相手先は手紙の様子からどこかの権威者と見られる)では
「本当ならお電話なりで話が出来ればよいのですが金銭的事情と健康の事情で手紙で申し訳ありません。1923年に夫が強盗の罪で刑務所に送られてから病弱な体ながら私が働き子供を養わなければいけない状態でした。昨年三月に息子が失踪、警察が発見したという息子は息子でなくそれで私は嘘つきなどいわれ精神病院に送られ五日間も収容されました(収容日数の説はいくつかありますが本人が手紙で五日と書いている)。私は五年間維持していた地位を失い食べる糧を失いました。(職を失ったということでしょうか?映画では病院の後も電話会社で働いていました)。今私は医者にかかっており神経的にも参っています。よい結果を期待します」と書いている。1930年の国勢調査ではクリスティは仕事先を電話会社と書き込んでいます。無職とかけなかったのでしょうか。もしかして精神病院や裁判などで欠勤が続き主任職からヒラに格下げされたのかもしれません。
また映画のマルコビッチ扮するブリーグレブ牧師も夫ウォルターの保釈のために動いている。牧師が州刑務所の偉い人L. Neumiller氏に書いた1930年11月に書いた手紙はこちら。
「ウォルターコリンズが囚人であるということは理解しています。しかし彼は幼い子供がノースコットに殺されたクリスティコリンズの夫なのです。私は彼女を支援し続けています。彼女の事に関しては聞いたことがあると思います。警察との裁判では賠償金を受け取れることになりました。しかし彼女は深い悲しみの中にいるのです。あなたの決定にはいかなるものでも感謝いたします。もしMrコリンズに今一度チャンスを与えることが出来るならと願います」 マルコビッチいい奴!じゃなくてブリーグレブいい奴!
またこの頃クリスティが部屋を借りているJames C. Borton氏もNeumiller氏に保釈の手紙を書いている。Borton氏は1930年にクリスティが国勢調査での回答にも部屋を借りている人として名前が出てくる人。
「Mrコリンズとは面識がないですがとMrs コリンズに私の家の部屋を1年と半貸しています。 彼女は精神的に欝状態になっています。ときに二日も三日もベッドから出れないときもあります。夫なしには彼女の未来はないのです。」と書いている。大丈夫かクリスティ。
その後クリスティはサンクエンティン刑務所へノースコットに会いに、そして翌日の死刑を見る。サンフランシスコからLAに戻った後にだんなの保釈をお願いし何度も手紙を書いているスミスさんという州の刑務所関連のお偉いさんに書いた手紙がこれ。
「この間刑務所を訪れた時にお訪ねしたかったのですが、忙しいと思いお手を煩わせるのも失礼と思い遠慮しました。加えてサンクエンティンまでの旅で私も疲れ、そして滞在中に絞首刑になった恐ろしい人との面談もあったので。刑務所の人たちはとてもLovelyにしてくれました。とても親切にしてくれて家にいるようにもてなしてくれました。皆が親切にしてくれるので最後に皆に何かいいたいとお偉い方に伝えたところ、まるで娘のお願いを聞くように許してくれました。まず皆に夫の保釈のお願いをしました。そのあとは何を話していいか言葉に出来ず、たた私の目の前に大きな体の人がたくさんいて・・終わりにして立ち去ろうとした時に振り返って”本当に皆さんのお気遣いありがとうございました”といったところ皆拍手してくださいました。あれがスピーチという類かはわからないですが。本当に真剣に職を探さなくてはと思いますが体のこともあり難しく何をしていいかもわかりません。スミスさん。もし夫が保釈されても公にならないようしていただきたいです。夫の保釈ご考慮お願いします」としている。クリスティは息子探しより夫の保釈のほうが頭で一杯なのか!!!!。
ちなみにクリスティの他の手紙によるとサンクエンティンでノースコットと対面および絞首刑を見た後はWarden Holohanさん(Wardenとは刑務所長のことだと思ってましたけど手紙のなかにたくさんWardenが出てくるので多分刑務管のことだと思います)の家に三日もお世話になり彼の娘さんと仲良く過ごしたそうです。 その後も保釈を求めるクリスティ。ジョーンズ警部が賠償金払わないしえらいことだ。
そんなこんなが続いて、1932年夏、ここ数ヶ月肝臓の具合が悪く黄疸で苦しんでいたウォルターはFolsom State Prison刑務所の病院で亡くなってしまう。


・Gordon Stewart Northcott ゴードン・スチュアート・ノースコット 猟奇殺人事件の犯人。逮捕されたときは21歳だった。ノースコットは子供の頃は女の子として育てられたというリポートもある。メキシカン兄弟二人と身元不明の少年三人の殺人の罪で死刑。ウォルター殺人に関しては罪には問われなかった。また誘拐した少年たちに性的暴行も加えていたとする文献も多いが、レイプなど性的な犯罪での起訴も罪状もない。性的なことに関してはあくまであっただろうという推論の枠を出ていない。また性的異常者の連続殺人犯の多くは、直接的な性行為がなくとも、拷問でのわめき声やつらい表情だけで性的絶頂に達する異常者も多い。ゆえ子供達が性的異常者による殺人の被害者となっても肉体的には性的暴行は受けていないケースも多い。ただしノースコット本人の支離滅裂な話の中では、子供達に性的虐待を加えたと話している。
徹底したショーマンで騒ぎが好きで、殺しを認めると言い出したり、やってないと言い出したり。刑務所の所長には19-20人殺したと話している。所長の話は↓のどこかにあります。
映画でも死刑のシーンは長く数十秒もの間、吊られるシーンが映し出された。公式の記録では死ぬまで12分吊るされていた。処刑の詳細は↓のどこかに書きました。



・Sanford Clark クラークは猟奇事件の犯人ゴードン・ノースコットの甥にあたる。ノースコットに強要され子供たちの殺人の手助けをしていた。実際にも映画と同じく農場にきた警官につかまった。クラークはゴードンに性的虐待を受けており、警察に、自分はカナダから誘拐され虐待されて、ゴードンの母親(映画には出ていないが息子の殺人の手助けをしていた)にも脅され殺人の手伝いをしていると話した。警察は多くの子供の遺体の一部を発見したが完全は遺体は一つとして発見できなかったがクラークによると石灰石を使い死体処理を行っていたという。石灰石をつかうと遺体の水分が抜けミイラのようにぼろぼろになるという。また骨も沼に捨てるなどしていたと話した。
刑事に13枚の子供の写真を見せられ中から殺した少年としてウォルターコリンズとウィンスロー兄弟三人の写真をあげた。
さらに身元不明のわからない少年の殺害ものちに認めている。 クラークの供述では一番最初の被害者がウォルターコリンズだったとしている文献がある。次がウィンスロー兄弟。次がメキシカンの少年。
事件告白後クラークはWhitter State Shool(のちにFred C. Nelles Youth Correctional Facilityと名前を変える)に五年収容ということになるが23ヶ月に短縮された。その後故郷カナダに戻った。第二次世界大戦に参加し、28年間郵便局で勤めた。結婚し二人の養子を向かえ、55年の結婚生活、1991年に死去。

JJ.Jones ジョーンズ警部。裁判でクリスティに訴えられ敗訴。裁判では賠償金支払命令と警察解雇処分とされたが警察は解雇せず。しかしそのあとすぐに自ら辞職している。しかし賠償金はけして払わなかったとされている。ジョーンズ警部のその後はネットで探したところ文献はなく、最後のジョーンズ元警部の消息をネットで確認できるのは1941年1月29日の新聞。クリスティが賠償金不払いのため裁判を起こした時のこと。
当時の新聞の記事によると
”警察の歴史の中でもっとも変な裁判が起きた。クリスティコリンズがJJ Jones元警部に賠償金不払いにつき再び裁判を起こした。賠償金額は15652ドル。元々は1930年9月の裁判で10800の賠償金を払うことになっていた。警察は今ではウォルター少年がノースコットによるほかの行方不明者と同じく殺されたものと信じている。警察は今では偽ウォルター少年に完全にだまされたことを認めている。ジョーンズ警部は裁判でサスペンションを受けたがのちに復帰。その後辞任している。”となっている。



・Sarah Louise Northcott 映画には出ていないが殺人鬼ノースコットの母親にしてこれまた殺人鬼。当初の供述ではウォルターを含め五人を殺したと話していた。ころころ変わる供述だったが最高裁での判決は終身刑。女性ゆえ絞首刑は残酷だという理由だった。
ただしわずか12年で保釈が許されていることからも、ウォルターを殺したとの自供は警察の圧力で話されたものという裏の事情を考慮したとの憶測もある。息子の処刑の場と同じサンクエンティン刑務所に収容されていたが、息子の処刑を知らされたのは執行後の午後。知らされると泣き崩れたという。1944年死去。

・Arthur J. Hutchins, Jr ハッチンズは映画ではハリウッドに出て映画スターに会いたくウォルターになりすましたと話している。映画のパンフレットによると地元の警察に出頭して自分はウォルターだと話しロスまでの旅費と宿を提供させようとしたのだという。映画ではウォルターより7センチ低い少年とされていた。ハッチンズはしかしこのときウォルターより三つも上の12歳だった。元々はアイオワ州生まれ。成りすましたのはイリノイ州。
またネットの文献によると、八チンソンの母親は9歳の時に無くなり、父親と義母と住んでおり孤独だったという。家出をし一ヶ月放浪、警官に子供の浮浪者ということで連れて行かれて、その際ウォルターコリンズという少年のことを知っているか聞かれたという。最初は知らないため供述でも知らないとこたえていたが、利用できると思い話の内容を変えていったという。
また別の説もあるようでLA Timesの記事では、イリノイ州のカフェに入ったときに、店員が行方不明者の手配書に出ているウォルターという子供にそっくりだと言われたことがことの始まりとしている。
映画の物語の同様汽車で母親との再会となる。このあと当然偽ウォルターは警察から失踪に関して話を聞かれている。偽ウォルターの説明によると、レストランにいたときに誘拐され、LAからイリノイ州のデカルブ(偽ウォルターであるハッチンズが路上生活をしているときにつかまった警察がある町)に連れて行かれたことに関してはどうやっていったか覚えていないと話している。その後農場のようなところで何週間もいたという。その後路上で警官に浮浪少年ということでつまかり二週間留置所ですごした。その後に僕はウォルターですとなるのだ。
映画では偽ウォルターはすぐにクリスティの家に向かっているが実際には誘拐という精神的苦痛をうけているということで青少年施設に入院している。ただし頭のよいところはみせ、血液検査は拒否していた。警察も誘拐した犯人に関しても捜査を行っている。偽ウォルターは写真を見せられ、一人の写真の男を犯人だと担当捜査官に伝えた。男は前科がありロスの警察官なら皆知っている人間だった。しかし警察は偽ウォルターの証言にはあいまいさがあり、男の逮捕はしなかった。偽ウォルターは実際に誘拐されたというレストランへ行き、なじみの顔をみて、うれしそうに話をしたという。また身体を見た医師は誘拐されたが虐待を受けたあとなど無く、警察は誘拐犯がひどいことをしたとしていることに対し、誘拐犯は偽ウォルターをまっとうに扱っていたと話しており、また誘拐の理由も、おそらく犯人は子供がほしかったか父親願望があったからではないかと話している。
一時は思惑どおりカリフォルニアに行き成功となるがしかし母親にはウォルターとだませるわけは無く、嘘を白状した後はIowa州の職業訓練学校に二年。その後カーニバルの受付の仕事をしなんと競馬のジョッキー兼トレーナーとしてカリフォルニア州に戻っている。1954年に死去。妻と娘がいた。娘によると、挑戦、冒険好きな豪快な父だったという。
ハッチンズはのちのミスコリンズとカリフォルニア州に対して謝罪している。また1933年に顛末のおこりを書いた25ページの口語表記の文章を残している。自身を少年冒険かと称していたハッチンズのこの文章はハッチンズの家族、に書かれた冒険記だった。
それによると路上生活一ヶ月がたったとき警察につれていかれ、ウォルターに関して尋ねられた。
「そのときは知らないよって答えたんだ。でもカリフォルニアのことは聞いたこともあるので、カリフォルニアにいける最大のチャンスかもしれないと思いウォルターだってことにしたんだ。」
連絡を受けたLAPDにはウォルター探しでデッドエンドの行き止まり状態だったゆえうれしいニュースとなった。写真を互いに交換して特長を連絡しあった。喋喋が頭の中に舞うほど狂喜乱舞していたLAPDに判断能力はなかった。ウォルターだ。

どうみても二人は同一人物だと確信した。
しかしノースコットが殺人犯として逮捕。行方不明の人間のリストから関係ある子供達をピックアップしていく。その中にウォルターが入っていた。
「わかってる。僕はミズコリンズに謝罪しないといけない。カリフォルニアにも。」とのちに送られた施設で話している。



なお上記の書面のよるウォルターじゃないですの宣言書。名前はビリーフィールズと入っている。嘘をついていたわけだがのちのアーサーハッチンズですと話した。
”ウォルターコリンズではありません。ハリウッドで映画に出たかったので嘘をつきました”と書いてある。
なお偽ウォルターが本物か尋問したのはジョーンズ警部。本物のウォルター少年が知らない時計を尋問の際ちらつかせ、かっこいいメタルの時計に目を奪われた偽ウォルターに時計のことを話しかけると”うんそれぼくのだよ”と話たことでぼろが出たという。その時計はウォルターの知り合いの夫妻が持っているもので本物ウォルターは見ていないものだった。



Cyrus G. Northcott 殺人時ノースコットの父親で息子が逮捕されたとき62歳。農場には住んでおらずLA市内のBrittaniaストリートに住んでいた。父親の家からも殺人に使った斧が見つかっている。当時のノースコット逮捕を伝える新聞では息子の犯罪を証言している。農場での犯行を知っていた。にもかかわらずなんの罪にも問われなかった。父親は息子の処刑の日刑務所に来ている。朝処刑場にきてひざまづき祈りをしたあと、息子の処刑の場を見たくないのか一度その場をさり、処刑が終わったあとに戻ってきている。

Sammy “S.S.” Hahn 無料でクリスティの弁護を引き受ける凄腕弁護士。映画でみせたように、芝居がかった法廷弁護が特徴だった。カリフォルニアでは三人しか女性で死刑判決を受けていないがそのうちの一人を担当した。1957年首に二つのブロックをしばりつけ深いプールへと飛び込んだ。自殺であった。演じたGeoff Piersonは24の第四シーズの大統領役。エアフォースワンにのっているところテロリストの攻撃を受ける。

James E. Davis デイビス本部長(1926-1929在位 だけではなく実は・・・)
捜査を担当していたジョーンズ警部のボス。影の大ボスにしては映画では少し貫禄なかったかな?といっても筋にあまりからまないのでちょうどいい感じの登場だったが、実際の警察活動では腐敗のLAPDのボス。功績もある。1929年にはラジオを使い警官に犯罪場所を知らせるシステムを考え出した。ただ無念にもクリスティコリンズの事件で本部長の座を失ったため導入されたのは次の本部長の時となり手柄を奪われている。ただし同じカリフォルニア州ではバークレー市警察が1928年にはラジオを捜査で使うため無線免許を得ていた。警官には”犯罪者は殺してつれてこい。生きたままつれてくるな”と話していた。この人はしたたかな男。一度はコリンズ事件で本部長の名を失うも1933-1938年に市長の後押しを受け本部長に復帰している。あぁクリスティの勝利はほんの一時のことだった・・・。
1871年に生まれ1973年死去。102歳まで生きていた。ところでLAPDの本部長リストによるとJames W. Davisという人が1885-1886に本部長を務めている。この人は父親なのだろうか?

Rev Gustav Briegleb ブリーグレブ牧師。ジョンマルコビッチ扮するクリスティの理解者。1881年ニュージャージー州で生まれる。1943年になくなっている。映画の舞台は1928-1935だけに牧師様は映画の最初では48歳の設定だった。ラジオを使い社会を正すという手段は彼がパイオニアである。あの時代のそのような活動は当然敵を増やす。違法な行為が行われていたダンスクラブやギャンブル行為の廃止させるために活動していたときは、サーカスを見学中に襲撃を受けたこともある。このときは警官も彼とその仲間の脇にいたため助かった。また1921年にはFatty Arbuckleという若手スターがセックス行為で死亡したことでハリウッドのモラルのなさを攻撃した。どのような行為かわからないが、薬物か、また酸素量を減らすと性的快感が増すことから首を絞めるセックスだったのか。人生を世の中のダークサイドを暴く人生を生きてきたが1943年家で転倒しその翌日死去した。なお墓はGlendaleにあるForest Lawn Memorial Parkにある。 なおクリスティンへの支援はウォルター関連の事件に限らず、クリスティンの刑務所にはいっている夫の保釈願いの手紙も書いてあげている。詳しくは↓のどこかに書いた。

・Ybarra刑事

LA Timesによると指を差しているのがクラーク少年。後ろ左からSepulveda, Mendoza, Ybarra刑事。ただし新聞よって映画で大活躍のヤバラ刑事は保安官(シェリフ)としているものもあった。映画ではヤバラ刑事はジョーンズ警部の元で働いていたがジョーンズは少年課の刑事。新聞によるとヤバラ刑事(保安官)は殺人課ライト警部の元捜査していたと書かれている。

・Wineville 残虐の舞台になったWinevilleは1930年11月にMira Lomaという地名にかわっている。現在も殺人鬼ノースコットが住んでいた家には誰かが住んでいる。他鳥小屋など住居以外は取り壊された。

・悪いLAPD この映画でクリスティンらの努力でLAPDの悪は一掃されることになった・・・・という印象が残るが実際にはこの映画の出来事の後にもLAPDはなんらかわらなかった。なにせ裁判でジョーンズ警部の解雇命令も無視され、本部長の肩書きが外れたデイヴィスもしばらくすると本部長に戻った。ばんばん犯罪者を撃ち殺す鉄砲隊は1930年代半ばまで存在していた。なにせデイヴィスを再び本部長にそえたフランクショーが市長ゆえ賄賂など不正は続き、1940年代にはマフィアを締め出すという理由でGangster Squadというものが結成、50年代には共産主義の人間をつかまえるということでRed Squadがまさにやりたいほうだい。Red Squadに関してある警察コミッショナーは
「共産党員は痛めつければ痛めつけられるだけ良い。やつらの本部は潰せば潰すほどよい。共産の連中には権利など無い。やつらの弁護をする人間の言葉などなにも聴かない」と話していた。その後のLAPDの腐敗ぶりはレイモンドチャンドラーやジェイムズエルロイの作品をみればそこに真実が見える。


・サンクエンティン刑務所 ノースカットが収容された刑務所。母親もここに収容された(パンフレットによる)。この刑務所、クリントイーストウッドファンならおなじみの刑務所。なにせダーティハリーの町サンフランシスコにある刑務所。パート5ではハリーはサンクエンティン刑務所に収容されているギャングの親玉を脅すためこの刑務所に訪れている。ハリー5では外観は本物を使い内部は他の場所でロケをしたとのことだったので今回もそうなのではないでしょうか。ハリー2ではギャングの運転する車に車で近づきアホをよそおい、クエンティン刑務所の場所を聞いている。下の写真。上がチェンジリングで出てきた1930年のサンクェンティン刑務所。下がダーティハリー5(1988年)で出てきたサンクェンティン刑務所。昔の車を置いただけでほとんど変わらない概観。ハリーの場合現代が舞台でそのまんまの外観での撮影のため、広いサイズで撮影していますがチェンジリングは1930年が舞台ゆえなのか狭い絵になっています。




--------------------------------------------------------------------------------------------------------
間違え特集
・18号室といえば怖い怖いおしおきの部屋。電気でいたぶる装置がでてくるがあの機器は1937年の考案。
・刑事はシリアルキラー(連続殺人)という単語を使うがこの言葉はFBIのプロファイリング捜査官として有名なケスラー捜査官が1970年代に使い始めたもの。(どの刑事の話だかわかりませんがクリスティンの弁護士が使っています。ここ30年の間死刑前のシリアルキラーに会う最初の女性、とかなんとかいう台詞で。)
・あ・・ジョーンズ警部の右耳にピアスの穴が・・・・。1920年代の警察官ですぞ。
・最後のシーン。1930年代のロスの町並みを走る路面電車に車。CG合成なのだけど、信号がずっとGOのまんま。
・冷蔵後のサンドイッチが・・・ラップでくるまれてるぞ
他いっぱいあるけどめんどうなんでこんだけ

--------------------------------------------------------------------------------------------------------
以下陰謀説好きな方用
アメリカの有名なパロディ紙National Lampoonのライターで白人の犯罪の研究科のMichelle McKeeはこの映画の冒頭の”A Trur Story"という文字を見て、ほぼ完全に事実にもとづいているのだと思ったという。McKeeは物語が進むにつれ、犯罪の真実を知りたい人にとってはなんとも時間の無駄となる映画と気づいたという。冒頭のTrur Storyという文字は予告編でも出ていることから、ミスリーディングをしすぎと批判している。
なにせ事件そのものがLAPDのでっちあげかもともいうくらいいかれた説をぶちあげている人なのでどこまで信じていいのかわからないが、一応ウォルター失踪事件に関しても膨大な資料を読んだと自負してるゆえ彼のブログから箇条書き。
○死刑後さらに少年の骨が発見されたがのちに女性の骨であることが判明している。
○死刑の場面。通常首吊りの場合つられたまま長い間のたうちまわり、尿、糞など体中の体液がとびだしてくる。映画のような死に方は首の骨が折れないとあれだけの時間では死なない。ノースコットは実際に首の骨は折れておらず12分間にわたり吊られ窒息死した。女性の見学していた人が失神した。(↓のCrime and Investigationでは11分としている)
○息子のためなら何でもすると話していたノースコットの母親。自身はウォルターを殺害罪で終身刑となった。しかし母親は警察にウォルターを殺したと認めれば息子ノースコット死刑を避けられるといわれたためのいわされた自供。
○クリスティは連続殺人犯と面会が許された唯一の女性といわれている。ただし、ノースコットが会いたいと電報を打った行方不明の子供を持つ母親はクリスティだけではなかった。
○映画では五年後にDavid Clayという少年が現れた。あの農場から逃れた少年だ。しかし多くの文献などを読んでいるMcKeeはフィクションに間違えないと思うとしている。多くの文献の中に、殺人を目撃したという文献も、農場で苦しい思いをしたという文献もない。WIKIでも五年後に生還者が出たとあるのはおそらく映画から得た知識ではとしている。
○Mckeeがこの事件にはLAPDの陰謀があるのではと思う理由の一つにウィンスロー兄弟とウォルターコリンズという二つの全国規模にまで発展しながら行方がつかめていない子供達が殺されていること。LAPDにとって二組とも捜査難航コールドケース入り濃厚になっていたため、この時代のLAPDだったらでっち上げて全部まとめて解決!もやりかねないのではとしている。記録ではウィンスロー兄弟のどっちからの頭部と見られている頭蓋骨が農場の外で発見。裁判でも頭部が証拠品としてあがったが、のちに専門家が調べたところ、女性の頭部ではとの結果が出たという。ノースコットの死刑執行後六週間後、そういえば農場そばの砂漠で女性の遺体が出ているぞ。とMcKee。
○カナダからの通報で農場にいる時に警官に保護されたクラーク少年。その後は警察に拘留されていたわけではなく少年施設に入れられていた。そしてノースコットの殺人事件の話をするのは施設に入ってから10日もたってから。この同じ時、同じ施設には偽ウォルターのハッチンズもいた。そしてクリスティが精神病院へ送られたのも二人の子供がこの施設にいる間だったという。警察の拘留ではなく少年施設にいたため新聞を読むことも出来る。ゆえクラーク少年が農場から出るために嘘をつくことも可能。何せ彼は性的虐待を受けていたのだから。もちろんJJジョーンズ警部にそそのかされ、すべてが終わったら少し施設に入っていればカナダに返してあげるからといわれて。クラーク少年は殺人を認め23ヶ月の施設暮らしの後カナダにもどり幸せに生涯を終えている。
○息子の犯罪を知っている父親は何の罪にも問われなかった。

ちなみにMcKeeは裁判のタイプ記録のコピーを持っているが、その手のコレクターから手に入れたという。Ebayのオークションで落札だって。
また上記のNOTHING IS STRANGE WITH YOU: THE LIFE AND CRIMES OF GORDON STEWART NORTHCOTTの作者もコピーを持っているが30000ページ以上に及ぶという。ただしなぜか1ページだけ紛失状態だという。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------
ノースカットの自供を伝える1928年12月の新聞
ノースコットが自ら9人殺したと話したうち五人について明らかにした。ノースコットはウォルターコリンズ、ネルソンウィンスロー、不明のメキシカンを自ら殺害。またルイスウィンスローはクラーク少年により殺害。またリチャードという名前の少年は父親が殺害したと話している(父親は逮捕されず、ウォルターは母親が殺した自白し終身刑になっている)。ほか自供ではなく書類でAlvin Gotheaという少年の殺害したと署名付で書いている。
ウォルター殺害に関しては、ウォルターをひざまづかせ射殺(ライフルか)前に祈ったという。
「殺してから埋めるまで三日ほど遺体を家に置いておいた」ノースコット。
「サンフォード(クラーク少年)がルイスを殺した時はネルソンは見ていたよ。まぁ彼が何が起こるのかわかるのは時間の問題だと思ったよ。で俺が彼を殺したんだ」とノースコットは話している。ノースコットの言葉は警察の発表による。

(ノースコットが大量に子供を殺したとわかったのは裁判も進み相当後になってから。ただし遺体などの証拠品はみつかっておらず、基本的にノースコットの悪事の関して出回っている情報で根拠のあるものは何もない。なにせ本人の自供でさえ支離滅裂、日によって違うのだから)

--------------------------------------------------------------------------------------------------------
Riverside Press紙による事件の報道
1928年9月15日付け”Wineville地区の殺人事件の証拠出る”
Sanford Clark15歳が捜査員に衝撃の事実を語る。クラークによるとカナダで誘拐されノースコットの農場に連れてこられたという。そこで囚人のように扱われて虐待を受けていたという。彼によると彼の従兄Northcottはとても残虐。クラークは二つの遺体の埋まる場所を話、ひとつはウォルターコリンズのもの、もう一つはルイス&ネルソンウィンスロー兄弟のものだという。捜査員は斧、骨、紙。指などを発見した。

9月27日付け”父親が息子の殺人を認める”
ノースコットの父親Cyrus George Northcott, 62才によると遺体はばらばらにこまかくされ農場のあちらこちらにばら撒かれているという。父親によるとノースコットはメキシコ人の子供を他の場所で殺し頭部を切り、農場へ持ってきたという。遺体の一部は数週間前に袋につめこまれてEl Monteで発見されている。その他に完全な遺体はみつかっていないが遺体を埋めた場所は血であふれており骨や指などが発見されている。

9月20日付け
ノースコットがカナダのブリティッシュコロンビアで逮捕。容疑を否認。また母親もカナダのカルガリーで逮捕。農場でウィンスロー兄弟に兄弟の家族へ手紙で自分たちは元気にしていると書かせていたことがわかった。本の空きページでかかれたものでこれはウィンスロー兄弟が図書館で借りた本だった。当初ウィンスロー兄弟の殺害を認めたものの今は否認している。

12月付
母親がウォルターコリンズの殺害を認め終身刑。サンクエンティン刑務所へ。ノースコットは弁護士をすべて解雇。自分で弁護する。

1929年2月
ウィンスロー兄弟と不明のメキシコ少年の殺害で有罪、絞首刑の死刑判決。   記事終わり
------------------------------------------------------------------------------------------------------------
LA TImesはたびたびこの事件をとりあげている。2004年の記事
1928年の2月2日 郡警察がLa Purnteで頭部の無い遺体がはいっている袋を発見した。ティーンエージャーで.22-caliber?rifleで胸を撃たれていた。 続く数ヶ月で三人の少年が失踪した。ウォルターコリンズが三月に。5月にはウィンスロー兄弟がヨットクラブから帰る途中消えた。9月に移民局がカナダから女性の電話を受けた。女性は息子が誘拐され農場にかくまわれていると話した。
捜査員が農場で誘拐されたとされるStanford Wesley Clark15歳と姉妹であるJessieを発見。ここでクラークは叔父であるノースコットとその母親の話を始める。子供をさらい殺しを続けているという。農場にある小屋で捜査員はメキシカンのウィンスロー兄弟が図書館で借りた本をみつけた。クラークはメキシカン殺害に自分もノースコットに脅され加担したことをその場で認めた。ノースコットと母親はカナダで逮捕されたた。クラークの自供により証拠があつまる。もっとも最大の証拠になったのは農場の下にある骨でうまった墓場だった。マットは血で染まり22-caliber rifleも発見された。1928年12月。逮捕から三ヶ月、ノースコットは警官につれられ農場で実況見分に。このとき供述では一人しか殺していないと言い張っていた。警官は9人は殺していると見ていたが、五人の殺人は認めた。この月母親がウォルター殺人を認め終身刑。
1929年一月にノースコットの裁判が始まった。しかし性的虐待ということもあり女性は陪審員から除外された。 95歳(2004年当時)の元裁判官で当時学生で傍聴席から裁判を見ていたJohn Gabbertは
「裁判をみるために凄い並んだよ。彼はとても落ち着いた男だった。裁判という場に圧倒もされていなかった。休憩の間にはどの弁護士よりも落ち着いて見えた。ある限られたことでは頭のよい人間だったのだろう」と話している。 裁判でノースコットは捜査員におちゃらけたり弁護士を解雇し自分で弁護を始めた。そして自分で自分に質問をし自分で答えるという有様だった。自分に不利な証言をした家族を嘘つきとよび、正しい裁判が行われていないと主張した。まだまだ他に被害者がいるとほのめかしもした。逮捕された母親を自分の証人として法廷に呼んだ。ところが母親はノースコットの父親Cyruss George NorthcottがWinifredという娘(ノースコットの姉妹)と近親相姦をしそれでノースコットが生まれた、つまり自分は母親ではなく祖母になるのではと言い出す始末。ちなみにこのWinifredはそのとき結婚しておりStanford Wesley Clarkの母親である。母親はいったい何人の夫がいるんだと聞かれると、覚えていない、五人の子供の名前も覚えていない、といった。そして検察にむかって
「次に結婚しるとしてもお前見たいなのはいやだね」と話した。ノースコットはウィンスロー兄弟と不明のメキシカンの殺人の罪で絞首刑tなった。ウォルターコリンズに関しては母親は殺人をみとめたものの状況証拠もなにもないため不起訴になった。クラーク少年は一人を殺したことで罪を問われWhittier State Schoolに送られた。
死刑当日。ノースコットは荒れ狂った。わめきだし震えだし。看守の手をとり”それ痛い?”と聞いた。彼は覆面で顔を覆うことをリクエストしていており足かせもあり13の階段は引きずられるように上がっていった。そして”そんなに早く歩かせないでよ”と叫んでいた。そして執行の直前”祈りを、僕のために祈りを”と叫んだ。サンクエンティン刑務所の所長Clinton Duffyによると、ノースコットは19-20の子供を殺したと話したという。 ノースコットの死刑執行後、所長は監房で農場の手書きの地図を見つけた。脇にはノースコットの字で”自分はやっていない”と書かれていた。しかしその後には”でもここを探せばほしいものが出てくる”と書いてあった。農場の一部に棺おけとみられる四角い箱が書かれていた。所長は地図を警察の送ったが地図の場所からは何もでてこなかった。しかし六週間後、農場そばの砂漠で12-15歳の少年とみられるの遺体が発見された。誰のものかはわかっていない。   おわり
------------------------------------------------------------------------------------------
LA Timesの上の記事でJessieというクラークの姉妹が出てきたのでここでJessieの名前が出てくる文献を。Crime and Investigationという過去の犯罪の記録を調べるサイトからのもの

「農場をいかに警察が発見したかに関してはさまざまなな記録が残っている。そのうちの一つはこうだ。
19歳になるJessie ClarkというSanford Cark(映画で農場でつかまった少年)の従姉がカナダから農場を訪問した(彼女は確かにカナダにすんでおり農場でSanford Clarkとともに保護されたとする文献がある)。そこで従弟が醜い扱いを受けていることをしり警察に通報したのだ。別の文献ではただSanfordが逃げ出したとしている。また他の文献ではカナダの親が息子がアメリカで虐待を受けていると通報したというものもある。 警察が農場に踏み込んだ時はすでにノースコットと母親はカナダへ逃亡。クラーク少年の話では最初の殺人は公に不詳の少年とされているがJose Gonzalesと見られる少年が最初の殺人。次がウォルターコリンズだという。ウォルターはベッドにくくりつけられ一週間に渡り拷問を受けた。最後は母親により斧で殺された。次がウィンスロー兄弟。 兄弟の一人ネルソンはクラークの手により殺害。ルイスはノースコットにより殺害。いつくかの文献では性的虐待を受けているとしているが裁判の様子を詳しくリポートしたLA Timesに関しては性的虐待の記述は見られない。
警察が発見したものは中身がない墓が三つ。指の爪。二つの指の骨、9つに分断された肉片。頭蓋骨の一部、ひざの皿の部分の骨、ライフル、血でぬれた斧、などであった。三つの空のお墓は石灰岩が出ており、死体を石灰岩処理し水分を抜きぼろぼろにしすでに遺体は当時の技術では遺体と判断できないまでに砂状態になっていたと見られる。また別の見方ではカナダ逃げる前に息子と夫婦は他の場所に遺体を破棄したという可能性もある。その場合モハビ砂漠にその場所と考えられる。農場にあった洋服の切れ端はウィンスロー兄弟が着ていたものとウィンスロー兄弟の母親により確認された。ウィンスロー兄弟のどちらかが図書館から借りた本もみつかった。その中でウィンスロー兄弟が母親に送ろうとしていた”僕たちは元気です”とかかれた手紙の紙も見つかった。

事件の裁判は以下を元に進む
被害者 
Lewis Winslow 12,
Nelson Winslow10.
Jose Gonzales 年齢不明(他の文献ではAlvin Gotheaという少年としているものもある)
ウォルター少年に関しては警察は被害者にちがいないとしているが証拠がなにもなく罪にはならなかった。
被告 
Gordon Stewart Northcott, 23 
Sarah Louise Northcott 年齢不明  
Sanford Clar, 15
警察 
Jack H Brown, San Bernadino County and Riverside County Sheriff’s Deputy
Clem Sweeters, Riverside County Sheriff
裁判官
Judge George R Freeman
検察
Earl Redwine, Deputy District Attorney
弁護
ノースコット本人
なお映画で出てきたハーン弁護士は、クリスティと警察の裁判の登場人物なのでこちらの裁判にはいません。

タイムライン
1928年2月2日 Jose GonzalesというClarkは話す少年の首なし遺体の入った袋が La Puenteという町の溝から発見される
同3月10日 ウォルターコリンズ失踪
同3月16日 ウィンスロー兄弟失踪
同9月15日 クラーク少年犯罪を告白
同9月20日 ノースコットがブリティッシュコロンビアで逮捕。同じ頃母親もカルガリーで逮捕。
同12月 母親がウォルター殺害の罪で終身刑
1929年2月19日 ノースコット死刑判決

母親は当初息子を助けたいためか四人の殺人を認めていた。父親のCyrus Northccottは母親は息子を溺愛し息子のためにつくし、息子のいわれるがままだったと証言している。
ノースコットは裁判では9人もの少年を殺したといったり、のちにはGonzalesという少年一人の殺害を認めるなど話を変えていった。 母親を自身の証言者として法廷に呼んだノースコット。母親はノースコットは実は父Cyrusと娘の近親相姦で生まれた子供で自分は祖母と言い出すなどしたがアホらしかったのか証言として公式に認められなかった。父親Cyrusも裁判へ呼ばれた。父親は息子が多くの子供を殺していることを話していたと証言。また石灰石で遺体処理する現場を目撃したという。トラック一杯分の石灰石は父親が息子に提供したものだという。石灰岩は農場では土壌を良くする為に使われるもの。
ノースコットは二年後に絞首刑となる。
ノースコットは死刑に備え手紙を父親と母親そして刑務所の精神カウンセラーに残している。父親には葬式で白いバラを使ってほしいと書いていた。ノースコットの最後の言葉については多くの違った文献が残っている。LA Timesによると”吊るさないでくれ。吊るさないでくれ”だったという。ただし非常に不明瞭な言葉で話されたため、別の人にはたんに、やめてやめて、の繰り返しに聞こえたという。死刑執行のために集まった見学人は140人。 絞首台の床が開いた時にノースコットが動いたため、落ち方が悪く、ゆえつらいことに首の骨が折れる落ち方にならなかった。そのため窒息死することになり11分も吊るされたままになったという。このことはLA Timesでは言及されなかった。 なお女性が一人失神したという。」


------------------------------------------------------------------------------------------
ノースコット死刑の前日にあったクリスティとウィンスロー兄弟の母親。ほか二人の行方不明者の母親二組もいたといの文献がいくつかあったが、ノースコットが自分の母親にあてた手紙、翌日に出た新聞の記事では、クリスティとウィンスロー兄弟の母親しか出てきていない。面会また面会にはなんとノースコットの服役中の母親と父親も参加していた。他参加者は刑務所所長とノースカッとにつく伝道牧師さん。
「坊やはお前は何も知らないよな」という言葉が母親が息子にはかけた最初の言葉だった。その後ノースカッとの両親は出て行った。表面上は”ちゃんと話すんだよ”と真実を話すことを促しながら。
映画ではアンジー扮するクリスティが凄い剣幕で”やったんかよおあらあああ”とすごんでいたが実際のクリスティは殺したのかどうかという質問はしていない。
面会を伝える新聞ではノースカットは真実を話さす死刑前日の日を外からの面会者との対話を楽しむように戯れただけに終わり、またコリンズ婦人は息子の生存に希望をもつ結果になったと書いている。コリンズ婦人は常に目に涙をためながら勇敢にノースコットとの対面を続けたと書かれている。コリンズ婦人は、”息子の鼻の形はどう”や”歯はどうなっていたのか””着ている物は”というようにノースコットがウォルターを知っているかどうかということを確認しるように質問をしていったという。しかしノースコットはたとえば歯について聞かれた時には
「おれ歯なんて抜いてないから歯がどうだっかはしらんな」などという答えをしていた。また何度も答えとして使っていた言葉は
「そんなことは子供の母親に聞きなよ」だった。クリスティへ最後の言葉は
「俺にはあと二日しかないんだよ、ミセスコリンズ。だから真実を話してあげるよ。俺があんたの息子について知っていることは、何もないね」だった。ついでにノースコットの父親もささやくようにクリスティに
「うちの息子は無実だと思いますよ」と話している。
また農場から服の切れ端、ウィンスロー兄弟が借りた本などが見つかったことから間違えなく息子を殺されているウィンスロー婦人にはあまりのいい加減なノースコットの態度にさぞつらい思いだっただろう。ウィンスロー婦人はノースコットから手紙を受け取っており、すべてを話すと書いてあったからだ。

------------------------------------------------------------------------------------------
1929年2月11日ウィンスロー兄弟の父親N.H. Winslow率いる集団がウィンスローのいる留置所を包囲、ノースコットの受け渡しを求めた。。父親はノースコットを連れ出して息子二人の遺体を取り戻すつもりだった。あつまった集団は100人を数え、オートバイにのり刑務所を包囲。集団は遺体は農場近くの砂漠地帯に放置されたと考え、砂漠へノースコットを連れ出すつもりだった。保安官が刑務所から出え父親と話をすると
「子供達の遺体がほしい。250人以上の人間が刑務所を囲んでいるんだ。ノースコットを渡せばなにも問題を起こさない。彼にも、子供達の遺体の場所に連れて行ってもらうだけだ」と父親は返答。保安官らは法の裁きにまかせてくれと説得。騒ぎは収まった。それから一週間と少したった日、死刑判決が下る。
この話一部死刑執行前夜の話と伝えているところありますが、新聞の記事をみたらまだ判決前の話でした。下のレザージャケットの男の人がウィンスロー兄弟の父親。


------------------------------------------------------------------------------------------
Crime ZZZ,netというサイトのシリアルキラーリストは他の文献では見られない情報が多く出ている。どこで仕入れた情報なのだろうか。
ノースコットによると10歳の時に父親にアナルバージンを奪われたという。また長年のわたり子供を誘拐、農場に書くまい、また幼児同性愛者に子供の貸し出しを送っていたという。子供に飽きると、その子供を斧で殺している(多くの文献では、子供を数日に渡り拷問行為をした末に殺すとしています)。ノースコットは自身が逮捕される夏に、地方検察局を訪問し、近くに隣人の乱暴な行為の不平をいっている。事件が明るみに出た後の捜査員お調べでは隣人はノースコットがクラーク少年を痛めつけるのを目撃している。またノースコットは子供を貸していた南カリフォルニアの金持ちたちの名前も明かしているがなぜかそれが公になることがなかった。彼の終身刑の母親は刑務所で死んだ。
終わり

どこまで信用していいかわからない内容ですが母親は12年で出所しています。また性の奴隷として貸し出した相手がいるなら、何も資料が残っていないということはないとおもうのですが。金持ちを当時警察が総力をあげて守りなかったことにしたのでしょうか。

Eastwoodtrivia TOPへ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



inserted by FC2 system